2015.08.20

研究者コラム|加藤賢治

 近江八幡の水郷

成安造形大学附属近江学研究所研究員
加藤賢治

 

天正十三年(1585)、琵琶湖の中央部東側に豊臣秀次が八幡城を築城し、現在の近江八幡市の歴史が始まった。秀次がこの土地を選んだ最大の理由は水利である。東西を結ぶ街道に近く、町の中心部から西の湖を通じて琵琶湖に船を出すことができる点は、楽市(信長や秀吉が城下で行った自由経済政策)を設定して商工人を呼び寄せるに最も適していたといえる。秀次は早速八幡堀を開削し、商工人を定住させて活発な町づくりを行った。

文禄四年(1595)に八幡城は廃城となるが、町はそのまま残り、そこで活躍していたいわゆる近江商人はこの地の利を活かして近世に発展を遂げた。

この地の近江商人(八幡商人)は湿地に群生する湿性植物を原料とする畳表(近江表)や麻織物(近江上布)、蚊帳、簾、よしずなどを全国に商品として流通させた。

「ふとんの西川」で知られる西川産業(株)の創業者西川仁右衛門は秀次の楽市令で八幡に移住した商人の一人である。二代目西川甚五郎は取り扱う商品を地元で大量に産出されるイグサを原料とする畳表と蚊帳に絞り、販路を東日本に広げた。そして豊臣氏から徳川氏に覇権が移った後の元和元年(1615)、五街道の拠点である江戸日本橋に店を出し西川家発展の礎を築いた。

近代に入り鉄道が敷かれ、自動車道が整備されるようになると物流が変わり、近世の八幡の発展は陰りを見せた。

しかし、この町がそのまま近代化されなかったことはかえって幸運であったのかもしれない。町の中心は鉄道や自動車道の側に移ったため、近世の城下町の雰囲気が自然なかたちでそのまま保護されたのである。

特に八幡堀から西の湖、そして琵琶湖に繋がる水郷は「近江八幡の水郷」として平成十八年(2006)、国の重要文化的景観の第1号として選定された。現在、近江八幡市白王町、円山町、北之庄町、南津田町他の公有水面、葦地、集落、農地、里山を含む約354ヘクタールが重要文化的景観となっている。

この景観の中に含まれる西の湖の湖上に「権座」と呼ばれる約1.5ヘクタールの小さな離島がある。西の湖の湖岸はヨシの湿地が広がっており、近世から村人は農地を広げるために、日常的に「地先」と呼ばれる湖に面した村落の湿地帯を埋め立てていた。「権座」は白王町と円山町に挟まれた沖合にあり、このようにヨシを埋め立ててできた農地である。現在は白王町の住民が酒米をつくっているという。権座に架かる橋はなく、今も田舟を使って農機具を運んでいるが、危険性の間題や一般的な農地に比べて耕作に費用がかかるため、耕作面積は減ってきている。

近年その「権座」での耕作を守ろうという運動がある。コンクリートでなく自然の岸を持つ権座で耕作をすることは、琵琶湖や西の湖に住む固有の生物の窠をつくり、栄養分を供給することになる。生物多様性が叫ばれる中、権座やヨシの湿地を保護し、近世の生活の慣習を見直そうとする働きかけは大変重要なことである。

近江八幡の水郷の風景はなぜか見る人の心を和ませてくれる。人はその水郷の風景をかたちとして捉えているのではなく、視覚的には見ることはできないが、その水面下にある生態系の循環も含めて感じているのではなかろうか。かたちとして見える景観だけでなくそこで生活する人々の営みも含めて後世に伝えていかなければならないと感じた。

 

 
OLYMPUS DIGITAL CAMERA加藤賢治
 Kenji Kato

1967年京都市生まれ。1991年立命館大学産業社会学部卒業後、高等学校地歴科教員を経て、1997年成安造形大学事務局勤務。事務局勤務の傍ら宗教民俗を学ぶため大学院へ進学。2004年佛教大学大学院文学研究科仏教文化専攻修了、2011年滋賀県立大学大学院人間文化学研究科地域文化学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2008年から成安造形大学附属近江学研究所研究員となり現在に至る。現在、成安造形大学社会貢献部門主査として勤務の傍ら、同大学附属近江学研究所研究員として近江(滋賀県)をフィールドに宗教民俗の研究を続けている。 主な論文、著書に『古式祭礼に見るコミュニティとそこに展開されるコミュニケーション』(2014年成安造形大学附属近江学研究所紀要3号)、『空(くう)にかける階段 彫刻家富樫実の世界』(2004年サンライズ出版)、『近江戦国スケッチ』(2010年サンライズ出版 分担執筆)他多数。

 

出典:近江八幡 草の根まんだら 第2号(近江八幡商工会議所, 2011)

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