2012.09.28

研究者コラム|山折哲雄


草の根まんだら宣言

 

山折哲雄

いま世界では、人類の生き残りをかけたとり組みがさまざまにおこなわれています。地球環境のことでいえば、「生物多様性」の課題が、「地球温暖化」の危機とともにくり返し語られるようになりました。昨年の十月、そのことを討議するための国際会議が名古屋で開かれたのも、そのためでした。

しかし、それでいったい何がわかったのでしょうか。曰く、第一に資源開発のあおりを食って、絶滅する動物や植物がふえてきた。これからそのような絶滅種をどのようにして保護したらよいのか。そして第二に、植物や微生物などの「遺伝資源」をつかって新しい食品や医薬品が開発されてきたが、その金銭的なわけ前を先進国は途上国に提供すべきではないか。何のことはない、利益配分の争奪戦という様相を呈したのでした。

 会議が終わってわかったことは、「金」と「国家エゴ」をめぐるむきだしの要求と衝突、という「人間多様性」の問題だったのです。そのため「生物多様性」というコトバからは、未来の理念とはまったくうらはらの、世俗の利害しか浮かび上ってはきませんでした。国家間、人間同士のあいだで演じられている、血の匂いのするエゴイズムの叫びしか聞こえてはこなかったのです。

「生物多様性」という、血の気を失ったコトバの残骸が議論されただけだったのではないでしょうか。そのコトバはもはや現実の中身を抜き去られた、ただの輸入ホンヤク語でしかなかったのです。しかしもしもここで、真に「生物」の「多様性」ということを考えようとするならば、なぜ、そのことをわれわれ自身のコトバで表現しようとしなかったのか。どうしていつまでも西洋発の抽象コトバに頼ろうとするのか。われわれの古里をふり返るだけでいいのです。その真の内容にぴったり適合する大和コトバがあるではありませんか。

「鎮守の森」というわれわれのコトバです。理念として掲げられているはずの「生物多様性」の中身を、それはあますところなく表現しつくしているではありませんか。「生物多様性」を具体的に示す貴重な価値観が、そこにはびっしりつまっているのであります。

 かつての「鎮守の森」には、多様な植物が繁茂し、すばやい小動物たちが走り廻り、小鳥たちのさえずりの声が天にこだましていました。鬱蒼とした樹立ちにかこまれた奥の空間にはカミが祀られ、人々が毎日のように祈りを捧げていたのです。鎮守の森はまさに、生物多様性をそのままに実現する草の根の楽園だったのであります。人間たちを包み込む草の根の宇宙まんだらだったといっていいでしょう。

「生物多様性」の日本モデルはこの「鎮守の森」であると、なぜその国際会議で主張しなかったのか。しかし日本側の参加者たちのあいだからは、誰の口からもそのような声はあがりませんでした。どのようなメディアの報道をみても、そのような発言はみられなかったのであります。

かつてシェークスピアは名作「ヴェニスの商人」のなかで、強欲な借金とりのシャイロックにたいして、「良き報酬は金にあらず、満ち足りた心にありと申します」と、登場人物にいわせているではありませんか。そういえば、あの老子も「足るを知る」といっています。それがわれわれの社会においては「腹八分」で満足せよ、という価値観につながり、消費とエゴイズムを抑制する「もったいない」という大和コトバを生んだのであります。

「生物多様性」というコトバにだまされてはいけない。

「生物多様性」というコトバにごまかされてはいけない。

「鎮守の森」の理念を前面に掲げて、ここ近江八幡の地に、新しい共同体、すなわち草の根のまんだら宇宙をつくっていこうではありませんか。  



山折哲雄
 Tetsuo Yamaori
1931年生まれ。宗教学者。国立歴史民俗博物館教授、国際に本文化研究センター所長などを歴任。主な著書に『髑髏となってもかまわない』(新潮社 2012)、『義理と人情―長谷川伸と日本人のこころ』(新潮社  2011)、『法然と親鸞』(中央公論新社 2011)ほか多数。 




出典:近江八幡 草の根まんだら 第1号(近江八幡商工会議所, 2011)

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