2012.10.07

研究者コラム|仁連孝昭


生命世界に根ざした地域をつくる -環境・経済を再考する-

 

滋賀県立大学理事・副学長
仁連孝昭

私たち人間が営む経済と私たち人間に生存の条件を与えてくれている環境との関係を再考し、環境と人間社会の両方でほころびが見えてきている現状の再構築を展望してみたい。

 

経済という言葉は日常で広く使われている言葉であり、「一家の経済」というと、家計の収入と支出をイメージし、「一国の経済」というと、GDP、景気や不景気、雇用、国際収支、財政収支などをイメージする。経済という言葉から「やりくり」という意味が浮かび上がってくる。しかし、環境と経済の関係を考えようとするときには、このような経済という言葉で想起される意味では不十分であり、もう少し踏み込んで考えなければならない。

もともと経済とは「経国済民(国を治め人民を救うこと)」から作られたエコノミーの翻訳語であったのだが、「経国済民」は忘れられ、そのための「やりくり」だけが意味として一般に定着したようである。ともあれ、経済と環境の関係を考えるとき、経済という言葉より、もとから日本語にある生業(なりわい)という言葉から経済を考えてみたい。広辞苑では、「五穀が生なるように務めるわざ。農作。生産の業。また、その作物。崇神紀『農なりわいは天下の大きなる本なり』。」とある。すなわち、自然に働きかけて、自然からの恵みを手に入れることを指している。もちろん、この言葉が生まれた時代は現在のような工業社会ではなく、農業社会であったこともあるが、生業は農業だけでなく、農業から離れた仕事にもあてはめられ、使われている。

 

この日本語の生業という意味で「経済」を定義しているのがカール・ポランニー(1886-1964)である。ポランニーは、支配的な経済学が「やりくり」に焦点をあてていることに対して、それは経済の形式的な意味であり、実在的な意味は継続的に人間の欲求充足のために、営まれる人間と環境との相互関係の制度化されたものとし、市場経済での交換だけでなく、互酬、再分配も経済過程として位置づけ、貨幣を通じて現れる部分だけに注目するのではなく、経済の実在的な意味を扱おうとした。

 

私たちも、「やりくり」の議論に入る前に、人間と自然との相互作用という意味で経済をとらえなおしたい。

次に、環境をどのように視野に収めるかであるが、環境を生命世界として位置づけたい。環境と呼ばれるものの中には植物や動物などの生き物と水や空気、岩石などの無生物が存在している。しかし、無生物も46億年の地球の歴史の中で地質運動だけでなく生命活動によってつくられたのである。大気中の酸素、窒素、二酸化炭素の割合は生命活動が創りだしたものであり、水も生物体内を循環し、石油や石炭も生物の死骸から形成されている。土壌は無数の微生物と無脊椎動物、植物の死骸、鉱物、微生物や無脊椎動物が創りだした空隙に蓄えられた水と空気からなっている。地球上の生命活動の長い歴史を通じて形成され、多様な生命が互いに取り結んでいる複雑な関係が現在の生命世界を形づくっている。生命世界は長い歴史を通じて、多様な生物の協働作業を通じてつくられた唯一無二の作品ということもできる。人間は微生物から植物、動物に至る多様な生物が作り上げた協働作品の分け前にあずかっているのである。

 

しかしながら、20世紀の人間文明は資源を一方的に採取し、廃棄物をばらまき、多様な生物の協働作品である生命世界を痛めつけ、人間生存の基盤を掘り崩してきた。人間が生命世界を支配するのではなく、生命世界と共存できる私たちの社会の再構築を近江八幡という生命世界で考えることが、私たちの課題である。そのために、地域の生業(ビジネス)と生命世界、地域の生活空間と生命世界、地域の人材育成と生命世界という3つの切り口で考えていくこととする。

 



仁連孝昭
 Takaaki Niren
公立大学法人滋賀県立大学理事・副学長、環境共生システム研究センター長等を努め、地域と大学、環境と経済をつなぐ仕事に携わっている。研究分野はエコロジー経済学であり、環境と調和した経済発展について研究している。また、NPO法人エコ村ネットワーキング理事長など環境分野、産業分野でも活動している。



出典:近江八幡 草の根まんだら 第1号(近江八幡商工会議所, 2011)

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